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過日、鬱で入院中の主人を見舞った。
自分で着替えられないという主人。
極力自分で手足を動かすようにしないとね、と話した。

数日後の診察日に同伴した際、主治医からパーキンソン病を併発していると言われ、それで薬も飲み込めないのだと話されてビックリ。
そのため着替えもできなかったのかと、現状を知り、改めて無理難題なことを言った自分を深く内省した。

それから1週間後のことだった。 
ふと気付くものがあった。
パーキンソン病も鬱も、すべてはわたし自身が原因だったのでは?という気づきである。

常に歩幅が小さく、ゆっくり歩く主人に歩幅をもう少し大きく開いて歩くようにしたらいいよ。
筋肉を使わないと歩けなくなるから、と話をしていたところだった。

主人を心配してアドバイスをしたつもりだったが、よくよく内省してみればなんのことはない。
自分に降りかかってくるかもしれない介護と世話、その不安を案じてのことに過ぎなかったと確認したのだ。
相手を愛で見ることも光で見ることもせず、ただ自分をかばうあまりのエゴの中のわたし自身に留まっていたに過ぎなかったのだ。
エゴには批判と分離だけで愛も自由もない。
「無」になることなどとても縁遠い話。

「動かなくなる」と決め付けて心配していたわたし。
まさに思考は現実化するということを目の当たりにして驚くだけだった。
その心配したごとくに信じた通り、思った通りのことがパーキンソン病として、わたしの目の前に現れたまでのことだ。
問題は、その決め付けをクリーニングしなければならなかったのに。

神様の創造物はすべて完璧なもの。
それに対して何か問題を感じたり、見つけたりした時は、自分の不完全さを見ているのだというホ・オポノポノ。
神聖なる存在の計画を遮ったり、割り入って邪魔をしたり、コントロールしないことだというホ・オポノポノの深いメソッドを噛み締めていた。

また人は自分の鏡、自分の投影だから他人へのアドバイスなどは、自分に向けてやるべきだということも確認する思いであった。

その1週間後の見舞いの時、なんと驚くことに自分で着替えている主人の姿があった。
まさにわたしが原因。
良きにせよ、悪しきにせよ、わたしが原因であり、同時に創造主であることを実感する思いだった。
本当に貴重な尊い体験だった。

9年間も鬱を体験をしてきたのだからもう充分だよ、もういいよ。
卒業しよう、と自分自身に話しかけた。
そして、これからは平和や幸せを体験するということにおいて自分自身で責任を取るということ、そして神聖なる存在に喜びと幸せを帰していきたいものである。

まさに「平和はわたしから始まる」
わたしがゼロになっていくための試練と訓練、実に貴重な体験であった。
いつも主人を通して教えられるわたしである。

クリーニングがなんなのか、やっとわかりかけて来たようにも思える。
すべてが感謝でならなかった。
ニュートラルで自由でありたい。
消去することのできるホ・オポノポノとの出会い、感謝でならない。

ありがとう。
ごめんなさい。
許してください。
愛しています。

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